ディスカッション (11件)
なぜ私たちは特定の料理のレシピに対して「正統性」を主張したがるのでしょうか。例えば、カルボナーラのレシピに生クリームが入っているだけで「それは本物じゃない」と厳しく指摘する一方で、アジア各国で独自に進化したチキンライス(カオマンガイや海南鶏飯など)には、驚くほど寛容だったりします。この「食の正統性」に対するダブルスタンダードは非常に興味深いテーマです。伝統を守ることと、土地に合わせて変化させていくこと。技術や文化の継承において、私たちがどこに線を引くべきなのか、皆さんはどう思いますか?
アジアの調理理論からカルボナーラを見ると、『Il Piccolo Talismano Della Felicita』(1964年)のレシピが一番かもね。ワインと玉ねぎを加えることで、酸味と甘みがバランスをとってくれるから。
1952年以前に出版されたカルボナーラのレシピが見当たらないのは事実だけど、ラツィオ州には何世紀も前から同じ食材を使ったパスタ料理が存在しているし、それらはしっかりと記録に残っているよ。
グリーシャもアマトリチャーナも、同じ地域で有名なパスタ料理で、同じチーズ(ペコリーノ)とグアンチャーレを使っている。実際、カルボナーラなんてグリーシャに卵黄を加えただけのものだしね。
もともとその土地になく、料理の歴史の一部でもないパルミジャーノやフランスのチーズを、ラツィオのレシピに入れるなんて意味がないよ。
結局のところ、本物志向っていうのは、レシピが地元の食材で生まれたその起源を大切にすることにあるんじゃないかな。
誰がどうアレンジしようと勝手だけど、食材が違うのにそれをカルボナーラと呼ぶのは、ローマの料理を期待している客を騙すようなものだよ。
今のイタリアンレストランは、「おばあちゃんが作ってくれたあの味」にどれだけ近いかで評価されるよね。
一方でアジア料理のお店は、家庭で作れるものと比べてどれだけ技術や見た目、味が違うかという部分も評価の対象になる。
年を取れば取るほど、「アイデンティティ」なんてものは一種の落とし穴じゃないかと思えてくる。じっくり検証すれば、そこに実体なんて何もないって気づくはずさ。何事にも歴史があって、今の姿とは別の何かで構成されているわけだから。
食べ物に関して言えば、本物とか伝統とかいう概念には笑っちゃうね。1000年以上続いていない限り、議論するほどの面白みなんてないよ。
面白いのは、裏側を覗いてみると、多くのレシピがそれぞれの国の神話の中で、ごく最近になって標準化されたものだってことだよね。
レシピってのは当時の経済や技術の進歩を写し出すスナップショットで、特定の技術的転換点が来るまでは存在し得なかった料理のカテゴリがたくさんあるんだ。
・20世紀初頭のオーブンやコンロの精密な温度管理
・19世紀後半の安価で(より健康的な)化学膨張剤
・19世紀のバニラの安定的な受粉技術の発見
・コロンブス交換による食材の流通(イタリアのトマト、ロシアのジャガイモ、インドや韓国の唐辛子など)
それに現代のサプライチェーンは、本来の旬や鮮度の問題を魔法のように解決しちゃったからね。例えば、昔のスコットランドのショートブレッドで米粉が使われていたのも、当時はそれが安かったからっていう理由だし。
部族主義に境界線なんてないな。
食の「本物」っていうのは、DOPや地理的表示(GI)の規制のみを指すべきだと思う。それ以外は単なる排他的なゲートキーピングと権力争いに過ぎないよ。毎年ブログがPV稼ぎのために同じ論点を繰り返すおかげで、また新しい層がアイデンティティや食のあり方について考えるきっかけになるのはいいことだけどね。
声の大きい連中は料理の定義を狭く捉えすぎだよ。創造性を大切にするなら、好みに合わせて別の名前を使い分けるのが自然な流れだと思うな。
食における「本物」とか「伝統」へのこだわりから卒業する文化が待ち遠しいよ。昔のやり方を記憶に留めるのはいいけど、「ニューヨークスタイルのピザはピザじゃない」とか「正しく作らなきゃダメだ」みたいなバカげた主張はもう終わりにしてほしいね。
アメリカ人は、海外の料理を自分たちの手に入る限られた食材や、大好きな化学調味料、甘味料(何にでもコーンシロップ入れるからね)、そして小麦粉やバターに合わせて作り変えるのがかなり得意なんだと思う。
だから、僕らがひどいカルボナーラを作っているとイタリア人が腹を立てるのもわかるし、ここで提供されているものが別物だって言いたくなる気持ちも理解できるよ。