ディスカッション (10件)
プログラミングやシステム設計において、複雑なコードや過度な抽象化に逃げていませんか?実は、直面している課題をただストレートに言葉にするだけで、解決策が見えてくることがよくあります。シンプルイズベスト。まずは言語化から始めてみましょう。
これまで読んだ中でダントツに最高の「AIスロップ」の定義だ。ブログ記事自体はAIスロップの対極にあるね。一言一句が重要で無駄がない。AIスロップを生むのはAIの利用そのものじゃなくて、中身や理解が伴わないのに大量のアウトプットを生成することだ。この区別のおかげで、AIそのものを責めるんじゃなくて、その絶え間ない誤用に焦点を当てるというメンタルモデルを持てるようになる。それに、AI補助コーディング中にAIを継続的に制御することがなぜ重要なのかという形式的なモデルも理解できる。プロンプトを積み重ねて、それがソフトウェアの意図として一貫した全体像を形成するなら、それは良質なコードを生成するためのシードや仕様になる。逆に「動かないからやり直して」みたいなAIに丸投げするような短絡的なプロンプトばかり積み重ねたらどうなるか、一度試してみればわかるよ。
すごいな。最近ちょっとアイデンティティクライシスに陥ってたんだ。情熱を持ってやってるし、そこまで下手な開発者じゃないはずなんだけど、AIについての議論ばかり聞いていると、自分の時代が終わったのかどうか分からなくなってて。でもこの記事を読んでいて、何かピンとくるものがあった。すごく納得感があるし、読んでいて気持ちが楽になったよ。
多くの人が「社会への貢献度」を基準にして他人を人間扱いしないことに多大なエネルギーを注ぎすぎている。「働いていないなら医療を受ける権利はない」といった考え方とかね。AIの普及が、人の価値と労働の成果を結びつけるのが本当に正しいのかを、みんなが考え直すきっかけになればいいと願うよ。
この引用がすごく刺さった。「Tom Hudsonが言っていたよ。『LLMを使ってメールを書かせようとするなら、いっそプロンプトを送ってくれた方がいい。少なくとも相手が何を言いたいのかは伝わるからね』」と。私生活では情報収集や課題の深掘りにAIをよく使うし、プロトタイプコードの叩き台を作るのにも時々使う。デバッグや問題解決のツールとしては最高だけど、結局のところ、AIを正しい方向に導くためには、自分自身が課題を把握しておく必要がある。直感を生み出すのは苦手だけど、直感を検証するのには優れているし、アイデアを素早く反復させるのには役立つよね。ただ、土木エンジニアとしての仕事では基本的に全く使わない。メールを書くために使うことはまずないな。何を書くべきか指定するまでに、ほとんど内容を言い終えてしまっているから。それ以上の言葉選びには価値がないことがほとんどだ。技術レポートも同じで、何を伝えるべきか指示する段階で、そのセクションはほぼ書き上がっている。要するにLLMはライティングツールとしては微妙に感じる。ライティングで「LLMに書かせようかな」と思うような内容は、ぶっちゃけそもそも書く必要がないことなんだと思う。
人生は経験の集積に過ぎない。時計の針が進む中で本当に重要なのは、誰かと一緒に過ごした時間だ。その時間はまさに「我々が持っている全て」であって、次に過ぎ去る1分こそが、死ぬときに失う唯一のものなんだ。機械と話すのは、食い扶持を稼ぐために「やらなければならない」ことだけ。機械と話した時間を記憶に残すことはないよ。それは価値がないから、記憶にも残らない。
この引用は本当に納得だ。
「LLMを使ってメールを書かせようとするなら、いっそプロンプトを送ってくれた方がいい。少なくとも相手が何を言いたいのかは伝わるからね」
丁寧さやプロらしさを加えることに全く意味がないとは言わないし、プロンプト自体にはそれが欠けているのは確かだ。でも、伝えたいことの本質はプロンプトそのものだから、そこにヘッダーと署名を付ければいいだけ。人間同士の会話なんだし、直接的に伝えるべきだよ。
それに、AIが生成した返信をもらうと少し侮辱されているように感じるんだ。なぜかはわからないけど、誠実さが感じられないからかもしれないね。
AIがどれだけ進化しても価値を保ち続ける分野がある。アートとスポーツだ。人々は創造主を気にしている。情報源こそが作品や感動、そして感情的な反応を定義するんだ。
でも、その領域以外のアウトプットは、ほぼ全てAIによる代替のリスクに晒されている。企業は利益を最大化することしか考えない非道徳的な存在だし、法律だって守らなければならない最低限の範囲でしか従わない。
法とは我々の集団行動の結果だ。我々は価値あるものを社会的に構築している。AIができることをやり続けるために週5日勤務を守るよう戦うこともできるけど……。私はむしろ、AIを動かす機械そのものの集団所有権のために戦いたいね。
宗教的なテキストを「強力な根拠」として提示するのは、嘲笑にも近いな。特に、その主張が「根拠を説明する必要さえない」という文脈の後に続いていたなら尚更だ。なぜ説明を付け足したのか?それは、あなたがそれを世界共通の事実として提示しているつもりが、実は単なる自分の意見だと内心気づいていて、根拠の薄さを補おうとしているからじゃないのか?
「人間には価値がある」
何のために、誰にとって?
これは非常に人間中心主義的で傲慢な考え方だと思うな。意識を持つ他の何ものよりも、人間という命に固有の価値があるなんて思わない。もちろん、肉を食べている以上、自分も偽善者だってことはわかってる。ただ、現実主義や経済的理由から、倫理的な決意を少し妥協しているだけだ。