ディスカッション (11件)
AIツールが全盛の今だからこそ、あえて自分の手でコードを書き、自分の言葉でアウトプットすることの重要性が注目されています。他人のコードをコピペしたりAIに生成させたりするだけでなく、自らペン(やキーボード)を執るプロセスこそが、エンジニアとしての思考力を鍛え、真の理解へと繋がります。
「LLM臭いドキュメントを誰かに送るってことは、相手が聞きたがっているものに近い何かをLLMが作ったってことを示しているだけで、自分がそのアイディアと格闘したことを示してはいない」...この言葉はLLMのコンテンツを他人に送る際の問題を雄弁に物語ってる。相手に「これLLMだな」って気づかれた瞬間、関係性のダイナミクスが完全に変わっちゃうんだ。今はもう、アイディアやコードをレビューしてほしいんじゃなくて、LLMが出した結果をチェックしてくれって頼んでることになるから。職場での最悪なケースは、チケットをClaudeにやらせてPRを出し、あとは放置して他人にレビューを任せる連中だ。自分の提出物は出す前に自分でレビューするのが仕事だ、って気まずい会話を何度かしたよ。当たり前のことのはずだけど、テストを通るコードやプロンプト通りの文章が生成される魔法を目の当たりにすると、脳がやられちゃう人がいるみたいだね。
この記事のタイトルは「AIに書かせるな」だけど、言いたいことは「AIに考えさせるな」に近い気がする(「思考」のセクション参照)。この区別は重要。なぜなら、(1)書くことだけが思考を助ける手段じゃないし、(2)書くことが必ずしも「最良」の手段でもないからだ。誰にとっても、どんな状況でもベストってわけじゃない。音声はアイディアや思考プロセスを捉えるのに最適だよ。ロッド・サーリングやマーク・トウェインも口述筆記を多用していた。これはプロセス初期の「正しく書くこと」に気を取られがちな人や、白紙を前に固まってしまう人、ニューロダイバーシティの人たちには特によく効く。録音は媒体の制約を脇に置いて、言いたいことを捉えるのに最適なんだ。そこからAIを使って文字起こしや微調整、文法チェックをすればいい。
長年、書くことは「思考の最終ステップ」だと思ってきた。頭の中では完璧に見えたアイディアも、書き始めた瞬間に矛盾が見つかって崩れ去る、なんてことは数え切れないほどあったよ。逆に、適当に書いてるうちに視点が根本から変わって、考えがまとまることもよくある。でも、中身が「コンテキスト・エンジニアリング」に過ぎない文章も多い。PRD(製品要求仕様書)でアイディアを練り上げたいのは山々だけど、AI以前から、PRDがただの情報の羅列で、何の計画も思考も伴ってないケースは多かった。そういう場合は「書いている」という前提を捨てていいと思う。儀式的に提案書が必要ならAIにやらせればいい。コンテキストを思い出すためだけのドキュメントなら、LLMが読み込むための「コンテキスト」として作る方がいい。最近、うちのエンジニアチームでリリースノートを書くのを徹底しようとしたけど、みんな「読むのが面倒」ってボヤいてた。一番の解決策は、将来のエージェントのためにエージェントにリリースノートを書かせることだ。退屈な読み書きはなくなるけど、コンテキストは失われない。AIの影響が仕事のやり方に完全に浸透するまでにはまだ時間がかかるだろうね。その間、AIが書いたコンテンツをAIに読み込ませて誰かに送る、なんてことを繰り返すんだろう(もっと最適化されたクローズドループにできるはずなのに)。
大体同意だけど、LLMが「アイディア出しに特に優れている」っていう考えにはちょっと異論がある。生成された悪いアイディアを捨てればいいっていうのは分かるけど、設計上、提案されるのは平均的で当たり障りのない主流なものばかりで、ニュアンスに欠ける。面白くて斬新なアイディアを生み出そうとしているなら、アイディア出しにLLMを使うのはお勧めしないな。
AIをどこで使うかの線引きについて、私はカート・ヴォネガットの言葉を思い出す。「上手い下手に関わらず、芸術を実践することは、魂を成長させる方法だ。シャワーで歌い、ラジオに合わせて踊り、物語を語り、友人に詩を書こう。できる限り最高のものに。そうすれば大きな見返りがある。あなたは何かを創り出したのだから」。私はアイディア出しもコンテンツ生成も、アートに関しては一線を画すと決めている。AIで肉付けした仕事の報告書はアートじゃないけど、自分のブログはアートだし、自分が内面化(徹底的に理解して記憶)しなきゃいけないこともアートだ。だから私のブログには免責事項を載せている(ちなみに、ページ内のタイポも意図的なものだよ!)。
全く同じことが「コード」にも当てはまる気がする。コードを書くのは、思っている以上に散文を書くことに近い。ボイラープレート(定型コード)を書いてる時でさえ、書くという行為そのものが思考を促す。じゃないと、ボイラープレートを減らして新しい、より良い抽象化を導入する絶好の機会をどうやって見つけるっていうんだ?
LLMのおかげで、「書くこと」の正体に気づかされつつある。自分にとって、書くことは基本的に「メンタルキャッシュのクリア」なんだ。書き留めることで完全に処理し、安心して忘れることができる。LLMに生成させちゃうと、その認知的な解決が起こらない。まだ形になっていない思考をオフロードすることはできないから、忘れることもできなくて困るんだ。そのためにAIを使うのは、誰かを雇って自分の代わりに筋トレさせて、自分が強くなるのを期待するようなものだ(スラヴォイ・ジジェクが最近の講演で、それを機械的なラブメイキングに例えていたのを思い出す)。本当の罠は、ライターが取って代わられることじゃなくて、モデルが出した流暢な出力を読んで、その深い理解が自分のものであるといつの間にか錯覚してしまうことなんだ。絵画から写真への移行を思い出すよ。カメラが自動化するまで、絵画の目的は現実を完璧に再現することだと思われていた。それが剥ぎ取られたことで、芸術の本当の目的が明らかになったんだ。単に定型文を量産するのが目的ならAIに任せればいい。でも、自分が本当に何を考えているかを知りたいなら、自分で書き出すという退屈でイライラする作業を、今でも自分でやらなきゃダメだ。
何年も前に聞いたシカゴ大学のライティング・プログラムのディレクターの講演を思い出した。彼の主張は「書くことこそが思考のプロセスである」というものだった。その話で私の書き方は変わったし、何か新しいことを学びたい時にまず「書く」ようになった。言葉や言語はアイディアを表現するために人間が作った素晴らしい技術で、それを書き記すことで、小さなアイディアを評価、編集し、大きなアイディアへと組み立てることができる。先生が「自分の言葉で説明しなさい」と言ったのと同じで、理解を書き出すことで、アイディアを評価し、重要な部分に集中し、理解を定着させることができるんだ。書くというステップがなければ、アイディアは幽霊のように形をなさず、焦点も合わず、いざ必要になった時に役に立たないまま頭の中を漂うだけになってしまう。Claudeが登場するずっと前に、コードも文章も書くことを学べて本当によかった。もし「簡単ボタン」を押せばそれっぽいものが手に入ると知っていたら、頭の中のアイディアを言葉にし、言葉をまた理解へと戻す苦労に耐えるのは難しかっただろう。今の子供たちの多くが、ちゃんとその苦労を経験して、思考能力を損なわないでいてほしいと願っているよ。
これって、書くことを「思考」という一つの概念に集約しすぎていて、書くことは単なる副産物だと言っているよね。でも、書くことには「提示」や「コミュニケーション」の側面もある。スピーチライターがいたっていいじゃないか。色んな著者がラフな形で考えを出し、それをライターが構造化して読みやすい文章に整えてきた。最終製品の各文章を自分で書いたからといって、その問題が解決するわけじゃない。思考と執筆を無理やり結びつけるのは恣意的な選択で、人によっては妥当なトレードオフかもしれないけど、全ての文章に当てはまるわけじゃないんだ。私は流暢な英語で文書をまとめるのが苦手だ。私の文章は荒削りで独特だし、細部を飛ばしがちだ。LLMは、文法も構文もボロボロな私のメモを、共有可能で理解しやすい成果物に変えてくれる。おかげで、より多くの思考を他人に伝わる形で発信できるようになった。AIがなければ、摩擦が多すぎて自分の考えをあまり伝えられなかっただろう。思考は形成され、書かれているけれど、他の人が読める形式ではないんだ。Eバイクが年配のサイクリストが走り続けるのを助けるのと同じだよ。
LLMはアイディア出しにはあまり向いてない——「めちゃくちゃなこと言って」と頼まない限りはね。そうすれば面白いアイディアを出してくれるけど、すぐパターン化する。でも自分の経験上、最初のセットは結構いいよ。執筆に関しては、LLMは拡張ツールだということを忘れないようにしよう。全責任をLLMに丸投げしちゃうなら、それは建設的じゃない。でもツールとして使うなら、何が違うんだ?スペルチェッカーや文法チェッカーだって文章を変えているわけだし(少し誇張してるけどね)。あと、LLMは思考を深める助けにもなると思うけど、デフォルト設定じゃダメだ。プロンプトのスキルじゃなくて、自分の望むように動かすこと。それには時間がかかる。非決定論的だし、自分がどう考え、どう書くかを理解する必要があるからね。多くの場合は無理かもしれないけど、うまくいく人には本当に効果的だ。たぶん、その人の書き方がLLMに似てるからかな?ところで、この地球上の大半の人にとって、英語は母国語じゃないってことを忘れがちだよね。個人的には、LLMを使って自分を明確に表現することは、誤解されたまま放置するより何倍もマシだと思う。